大切な人に死なないでほしい。
でも、
その願いは叶うことがない。
分かっているけど、納得できない。
お話しませんか?
あなたの宗教を作りましょう。
愛する妻を失った30代男の叫び
幼い子供2人を残して
30代で妻に先立たれ、
絶望した男がいます。
なぜこんな理不尽なことが起こるのか、
こんなに悲しい思いをするなら
結婚なんてしなければよかったんじゃないか、
神か仏があるならば
どうか愛する人を返してほしい。
どんなに祈っても嘆いても
死んだ人は帰ってこないと
頭では理解しています。
当たり前だというけれど、
こんな残酷なことはない。
この世に神も仏もあるものか……!
叫び、泣いて
男手一つで2人の子供を
立派に育てあげました。
その生き様を
誰が否定できるというのでしょう。
ところが世の中には、
信じれば救われる。信じなさい
困っている人、絶望している人に、
状況によらず、
このように言う人達がいます。
そんな言葉が届くわけがないのです。
励ましにもなりません。
救われるというのなら、
あの人を返してくれよ……!
反発するだけ。
時間をかけて、
しっかり悲しんで
受け入れてこそ、
前を向いて生きられるのです。
そんなことは分かっています。
でも、
自分が信じているものが
正しいと思っていて
相手のためにもなると思うから、
あくまで相手のためを思って
信じましょうと伝えるのです。
相手を思うその気持ちは、
間違っているわけではありません。
ですが時に、
2人の関係に
深い溝を作ってしまう。
それぞれの愛があるからこそ。
とても
悲しいことだと思いませんか?
元幹部候補生、今教祖
申し遅れました、
河西数真(かわにしかずま)といいます。
お前は何者なんだ?
そういう話をする資格があるのか?
と思われる方もいるでしょうから、
私のお話をさせてください。
私の家庭の宗教事情は少々複雑でした。
女性陣、
お母さんとおばあちゃんは
熱心な信者で宗教活動もしている。
おじいちゃんは別の宗教を信じていて、
宗教活動はしていない。
お父さんは無宗教、
というよりは
「宗教というのは
誰かが作ったものを信じるのではなく、
自分でつくるものだ。
お前も教祖になれ」
という信念を持っていて、
いわば父親教の教祖でした。
女性陣からは、
信じるんだよ、
この信仰は絶対だから、
と言われ、
父親からは、
盲信するなよ
と言われ育ってきました。
地下鉄サリン事件や
シャクティパット詐欺で
宗教のイメージは最悪だった頃です。
そんな私が、
宗教活動を始めたのは、
大学生になってから。
きっかけは友人の死でした。
人が死ぬ時に、
自分には何もできない、
どうすることもできない。
仕方のないことだとは思いながらも、
受け入れることができませんでした。
柔道部でガタイが良くて、
元気で面白くて、
困っている人がいたら
放っておけないような
いいやつだったのに。
いつか死ぬなら、
どんなに楽しくても、
どんなに幸せになったとしても、
意味がない。
何のために生きればいいのか。
こんなに豊かな世界を作っておきながら、
いつか死なないといけないように
人間を作ったのだとしたら、
神様は本当に理不尽だ。
そう思いながらも、
私は宗教に救いを求めました。
他に生き方など知らなかったのです。
その結果……
友人は離れていき、
同じ信仰仲間たちとも
なんだか違う。
彼らのように純粋に、
信じることはできませんでした。
私には宗教は無理だ、
もう絶対にしない……
もう信じることも、
考えることもやめて、
世界の歯車として、
ただ毎日を過ごしていこう……
幹部候補生にまでなっていましたが、
私は信仰を捨てました。
それから13年。
なんとか仕事をこなしながら、
それなりに楽しみもみつけて、
彼女も作ったりして、
もうちょっと良くなれるかな?
なんて思い、
自己啓発や心理学や
ビジネスや哲学などを
かじっていきました。
それでも心のどこかに
人生に対する虚しさは残っていて、
必死に目を背けていても、
ふとした時に直面します。
何をやってもいつかは死ぬ。
幸せに近づけば怖くなる。
私にはやはり、
死ぬということへの考え方を
変えてくれる根拠となるような、
何か信じられるものが必要だったのです。
でも、
世の中にあるものを
信じることができません。
だから、
自分で宗教を作りました。
宗教の勉強がしたいわけじゃない
宗教の話がしたければ、
教会に行ったりすればできます。
私も行ったことがあります。
しかしそこでは、
教義について勉強することはあっても
何をどう信じて生きていけばいいのか?
救いとなる答えは得られませんでした。
他の宗教を否定して、
この宗教だけが正しい
と話すところもありました。
信者獲得競争が宗教
ではないと思います。
宗教の違いを越えてお話しませんか?
共通了解を探りませんか?
哲学対話という取り組みがあります。
絶対的な真理なんてない
という前提で対話し、
誰もが深く納得できる答え
=共通了解
をみつけるというものです。
信じる気持ちは
個人にとって絶対的なもの
であるべきです。
そうでなければ、
確信が揺らぐ、脆い生き方でしょう。
しかし、
他者との間に共通了解がなければ、
独りよがりの信念となり
他人に迷惑をかけるばかりではなく、
疑念を抱くことにもなりかねません。
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