これは、かにの妄言である。
冬の半ば、日が上り始める頃に男は目を覚ました。温かなベッドに、長年連れ添った妻はもういない。寒さが壁越しに挨拶をしてくる中、男はベッドを這い出て手すりをたよりに階段を下りた。いつも妻がしていたように、カーテンを開けて部屋に日を入れた。
窓は道路に面している。娘が拾ってきた猫がまだいれば、カーテンを開けた途端に外をのぞいただろう。道路を右へ行けば最寄りのスーパーとバス停があり、左へ行けば住宅地が続き、しばらく進めば小川の向こうに保育園のあるT字路へ出る。
小川を迂回して橋を渡り、保育園を回って帰れば、30分のジョギングコースとなることを男は知っていた。また、今では60分の散歩コースであり、億劫となって小川の手前で引き返す日が多いことも。
おそらく通勤のためであろう車が道路を往来していることから、平日なのだろうと考えられる。今日は風呂掃除はしなくて良いな、と男は思った。週1回、土曜日が風呂掃除の日と妻と決めていたからだ。
朝の支度に、昨晩ゆでた卵を鍋から取り出す。鍋の中で残りの卵が転がるカラカラという乾いた音が心地よかった。男は卵の殻を剥きながら、今日の予定は何だったろうかと考えたが、すぐに何も予定のないことを思い出した。
男は3年ほど前に仕事を引退していた。
引退してしばらくは良かった。まだ体力もあったし、よく散歩を楽しんでもいた。現場から応援を頼まれることもあったが、趣味や家族との時間を多くとりたいと考え、断っていた。そうしているうちに時は経ち、男の体力は急激に衰えていった。体を使わなければ当然筋力は衰えるが、男には体力づくりを頑張る理由も意志もなかった。妻がいなくなってからは、なおさらのことだった。一人で食事をし、部屋の掃除をし、時には散歩に出るが、ほとんどは思い出にふけって一日を過ごす。趣味のゲームもやめてしまった。
だが男はそんな日々に満足していた。自らの役目を果たしきったと思っていたからだ。ゆで卵をかじりながら思い出すのは、弁当をつめる妻の姿だった。
「今日のお弁当には、お父さんのゆで卵が入ってるよー」
「またゆで卵ー?」
「許してやっておくれ。お父さん、ゆで卵作るの上手なことだけが取り柄なのよ」
妻と娘が戯れている姿が浮かぶ。卵をゆでられることだけが取り柄と言われたことについては、当時少しばかり腹が立ったが、今では微笑ましいことだと思えた。
ゆで卵を弁当に詰めた後は、それぞれ出かけていく。
男は自転車で10分の会社へ出勤し、そこからまた車で10分かけて現場へ移動する。途中道路脇を赤く彩る花がポインセチアであることは、小学校へ入学した頃植物に興味を持ったらしい娘に教えてもらった。
担当していた現場は、医療品メーカーの設備増強工事だった。年末にかけて設備を停止し、取り合い部分を施工する慌ただしい工事だ。増設部分である鉄骨造2階建ての建屋は完成し、機器の搬入と一部の内装工事を行っているところだった。
まだ薄暗いうちに現場事務所の鍵を開け、冷えた室内の照明とエアコンをつける。神棚に水を供えて挨拶した後、パソコンの電源を入れ、起動を待っている間に休憩室と喫煙室のエアコンもつけていく。始業前の現場確認にまわる。打ち合わせした搬入ルートは確保されている。作業エリアも調整してある。今日も何事も起きませんように、と思いながら朝礼の準備を終えると、広場に50名程度の関係者が集まってきた。
他現場でも世話になっていた据付グループの監督が声をかけてきた。
「おはようございます! 本日作業は予定通り、既存の培養室内空調を養生し、取り合い壁の解体を行っていきます」
「おはようございます。既存のクリーン設備空調は停止しているので、予定通りいけます。しかし、昨晩は冷え込みましたね」
「えぇ、鍋がおいしかったです。今朝は車の窓も結露がすごかったですよ」
「うちは昨日ガスが止まりましてね。風呂にも入れず体が冷えましたよ」
「そいつは大変だ。給湯配管の凍結とかですか?」
「いや、朝調べたら単にガスメーターの停止でした。復帰ボタンを押してきましたよ」
「ははは」
他愛のないやり取り。顔も名前もなぜか思い出せないが、バイクが好きな小太りの監督だった。詳しく覚えていないような光景が大切な思い出だと人に言っても、理解されることはないだろう。
朝礼の後は各グループでミーティングを行い、作業に入っていく。男は据付グループの作業に初めだけ立ち会い、後はなじみの監督と職長に任せて大丈夫だろうと考え、配管グループの様子をみることにした。配管グループの監督は職人あがりの若い男で、名前はたしかAといった。
現場は概ねうまく進んでいた。
しかし、トラブルがないわけではない。特に若い監督はベテランの作業員からなめられがちだ。Aが配管の施工チェックで見回っていた時だった。
「いいよな、監督は。見てるだけ、言うだけで現場が進んでいくんだから。呑気にいつもご安全にって言ってっけど、現場見てみろよ! どこが安全なんだよ!」
たしかに一見そう見えるのだろうが、あんまりな言い方だと男は思った。Aは呑気なわけではなく、精一杯工程にのせようとしているのは、打ち合わせでの話しぶりから感じられた。
A一人では現場が回らないのではないかと思っていたが、材料の手配も、人員の手配もなんとかやりくりしていた。施工のチェックに時間をかけるのも、怠れば間違いに気づくのが遅くなり、手戻りが大変となるためだ。そんな中、新しく来た人からそのように言われたらカチンと来てもおかしくない。だがAは和やかに対応した。
「あー! たしかに危ないっすね。すみません! すぐに対処します! 共有していただいてありがとうございました。足場の是正すぐ手配するので、しばらく使用禁止にしておきますね」
「ちっ。言われる前にやれよな」
Aは現場でしか分からない苦労があることだけでなく、時にはどうしようもなく腹が立つことも知っていた。
僕も腹が立つことはあったけど、理解しようとしてくれる監督がいたから救われた。他人に言うことはないが、Aはそう思っていた。
同じ状況でもなければ人のことは分からないと認めつつ、何か困っていることはないか現場の声を聞き、できる限り理解しようと努めていた。解決策を出す際には現場を俯瞰してみることも忘れなかった。そんな監督にAはなりたかった。
一緒に仕事をしていれば、Aの動きからも思いやりが伝わるのだろう。Aが率いる配管チームは活き活きとしていた。
猫が近づいてくる鈴の音と、餌を出せという鳴き声で男は我に返った。
思い出にふけっているうちに、日が暮れていた。
男がすべての思い出を振り返るには、1日ではとても時間が足りず、2日でも3日でも、1年でも足りなかった。1年が経てば最初の頃の思い出を忘れているから、もう一度始めからやり直しだった。そうして振り返りきれなかった思い出は、現実世界にはみ出してきていた。
ガレージの隅に置いてあるサビの浮いた自転車や、湿気った楽器や、物置に置かれたままのよくわからないガラクタの山など。
男はそれらを見ても何も思わなかった。
苦しい出来事も、後から振り返ればいい思い出だったと思えることがある。思い出を美化していくと、何が起こってもさほど問題はないことに気がつく。現実に対して興味がなくなり、感情は動かなくなっていく。そうして人は死に近づいていくのだ。
部屋の向こうから呼び声が聞こえた。
「提督! 2時の方角から山椒魚の部隊が接近中です!」
部下の声で男の意識は現実へ戻った。人類は知能を持った山椒魚と戦争中であり、人が撤退した都市は山椒魚の住める、豊かな自然に置き換えられていっている。
男の役目は艦隊を指揮し、山椒魚の攻撃から人類の領土を守ることだった。
「敵の部隊編成は?」
「左翼ハコネの混成部隊、右翼カスミ、後列に……クロサンショウウオです!」
大切な思い出とともに過ごす、普通の老後生活という妄想を頭から追い払い、男は言った。
「主砲、2時方向へ。戦闘機は全機離陸せよ。制空権を取らせるなよ」
妻子の声も、建設現場の騒々しさも、猫の鳴き声も男には聞こえなかった。
父に聞こえていたのはきっと、死が歩み寄る足音だけだったのでしょう。現実に興味がない人にとって、空想が生きる理由となることもあるのだと思います。父を訪ねた時はいつも、テーブルの上にカレル・チャペックの『山椒魚戦争』が、開いたまま置いてありました。今でもまだ山椒魚たちの街で購入できるようです。このお店にも置いてありますよ。
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