お元気ですか、
アセンブリック教団代表
河西数真(かわにしかずま)です。
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悲しみについてショートショートを書きました。
この物語は、フィクションです。
「この薬を飲むと、あなたは死ぬかもしれません」
僕は患者に説明する。いつものことだ。
ここは悲しみ外来。悲しむことができない人たちが来る、精神病院だ。
人に連れられてくる患者もいるが、
そういう人たちは薬を飲もうとしない。
危機感を持たないし、ムダに死ぬリスクを犯したくないからだ。
死ぬかもしれない、と言われても
薬を処方してもらおうとするのは、
自ら望んで悲しみ外来へ足を運んできた人たち。
悲しむことのない人生に価値を感じることができなくて、
命の危険を犯してでも「悲しい」を知りたい人たちだけだ。
「はい。それでも私は悲しみを知りたいです」
薬を処方する前には、十分な問診を行う。
狭い診察室で、シンプルな角丸テーブルを挟んで。
一体何が悲しめないのか。
いつから悲しんでいないのか。
あなたが悲しめないのはなぜだと思いますか? など。
問いかけをするうちに、悲しみに気づいて帰っていく人も多い。
できればそういう人たちばかりだったらと思う。
薬を処方するような気を使うことをしなくてもいいから。
この薬は、SSRAという。選択的セロトニン再取り込み助長剤。
悲しい気持ちがわいてくるように、ホルモンバランスを調整する薬だ。
簡単に言うと、うつ病になる薬と言える。
効きすぎて社会生活が送れなくなったり、
自殺してしまう人もいるくらい、危険な薬だ。
本当に、こんな薬なんて飲まなければいいのにと思う。
僕は医師として、十分以上にリスクを説明する。
「悲しみを知らなくても、生きていけるのではありませんか?」
そう。別に悲しまなくても生きていける。
なぜ、悲しみを知ろうとするのか。
「大切な人を失っても悲しめなくて、
それでも自分はただ生きている。
そんな人生に価値など感じられないのです」
「なるほど。でも少し考えてみてください。
悲しいという気持ちを知らない事自体が、
あなたが自分の人生に価値がないと感じていること自体が、
悲しいことではないのですか?」
ここで大抵の人は、すでに自分が
「悲しい」を知っていることに気づき、薬を飲まなくても良くなる。
「……たしかに、そうかもしれませんね。
でも、頭では理解できるのだけど、納得はできません。
私の人生に価値がないと思うことが、
『悲しい』という感情と結びつかないのです。
悲しいと思えることは、大切なものがあった
ということだと思います。
悲しい感情を知らない私には、
大切なものなど何もないのかもしれません」
たまに、頑固な人がいる。
どうしても自分は悲しまないといけない、とか考える人だ。
僕はそういう患者に会うと、いつもため息をつきたくなる。
薬は処方したくない。
「悲しみ外来に来る、以外の選択肢は思いつきませんでしたか?」
「私だって、いくつか試しました。
悲しいと言われる映画をみたり、
大切なものを見つけるために自分の過去を振り返ったり。
自分自身を大切にする、というのもやってみました。
でも、それらすべてを失ったとしても、悲しいなんて思えないのです」
「あなたは少し、勘違いをしているかもしれません。
失う、ということはすでに持っている、
手に入れている物がなければできないことです。
あなたはまだ、手に入れていないのではありませんか?
自分自身でさえも」
「自分自身を、手に入れる?」
「そうです。世の中とは区別された、
あなたという存在を実感することです」
「私という存在は、ただの原子や分子の集まりです。
今は人間という形をとっていますが、
死んだら世界の一部になります。
私と世界の境界線なんて、一体どこにあるのでしょう?」
「それは、あなたが境界線だと思ったところが境界線ですよ」
「わかりません……」
「じゃあ僕がこれからうんこするので、食べてください」
「いきなり何を言っているのですか?」
「あなたと世界の境界線がないとしたら、
僕のうんことあなたの境界線もないはずですよね。
食べられるはずです」
「嫌です……セクハラ野郎」
ドン引きされてしまった。
まぁ、うんこ食べますと言われても、
こちらがドン引きするのだけど。
「で、どうしますか? 薬、処方が必要ですか?」
「はい、処方してください。悲しみを知りたいです」
「ではその前に、僕のうんこを食べてくださいね」
「……っ。それは、もう、嫌です! なんですっきり処方してくれないんですか……。うぅ」
患者が泣き始めた。よしよし。
「今、どんな感情ですか?」
「薬を処方する代わりにうんこ食べろとか言われて、
悔しいです。怒っています」
悔しさとは、怒りの混合感情で、
怒りというのは、二次感情だ。
怒りの奥には別の感情がある。
それが悲しみだったりするわけだ。
「なぜ悔しいのですか? なぜ怒るのですか?
僕はただ、国の方針に従って診療を進めただけですよ?」
失うものを持たない「無敵の人」による
犯罪を防止するために、
悲しい気持ちを知ってもらいたい、
大切なものに気づいてもらいたい、
という目的で国が開設したのがこの悲しみ外来なのだ。
「悲しさを知りたいという自分の気持ちが
否定されたようで、悔しいです」
「自分の気持ちが否定されたことが、悔しいのですね」
「はい、そうです。なぜ薬を処方してもらえないのかと」
「フフ。それは、あなたには薬が必要ではないからですよ」
「どういうことですか?」
「もし、うんこを躊躇なく食べるようなら、
僕は薬を処方しなくてはいけませんでした。
国のガイドラインです。
他の人には内緒にしておいてくださいね。
国としても、できるだけ処方したくないのがこの薬なのですから」
そう、危ないところだった。
うんこは最終防衛ラインだった。
国とは関係なく、僕が勝手に設定したラインだけど。
「他にも、自分の気持ちが否定されて、
悔しいと感じたことはありませんか?」
「言われてみれば、私はこう思うんだけど、
と伝えても理解されなくて、
悔しく感じたことがあったかもしれません」
「悔しさや、怒りの奥には別の感情があるのですよ。
それが、悲しみだったりするのです」
「そうだったのですか」
「はい。それに、あなたは気付いていないかもしれないけど、
あなたはあなた自身を大切に思う気持ちも持っています。
うんこを食べるのは嫌だったわけですからね」
「たしかに、言われてみればそうかもしれません」
「これからは、あなた自身と、あなたの気持ちを、
あなたが大切にしていってください。
自分にとっての一番の理解者となってみたらいかがでしょうか?」
「ありがとうございます。そのようにしてみます」
そう言って、患者は診察室を出ていった。
ふぅ。
やっとため息をつけた。
薬を処方しないために、
うんこ食わせるぞと言わないといけないなんて、僕は悲しい。
変なあだ名がついたら嫌だな、と思う。
悲しい気持ちを知らないことが悲しい、
とする世間の価値観が悲しみを生み出しているのかもしれない。
悲しみを抱えた患者さんが来るから、
僕は悲しんだり嫌な気持ちになったりする。
でも、その悲しさや嫌な気持ちがあるから、
僕は自分が大切なのだと気付かせてもらえる。
そう思うと、世間の価値観こそが、
「悲しみサプリ」なのだろうな。
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