永遠を願う歌「君が代」のアセンブリック教的解釈

お元気ですか、
河西数真()です。
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日本の国歌、
「君が代」

歌詞の意味は
あまり考えずに、
行事で歌ってきた
という人も多いのではないでしょうか。

ネットで調べてみると、
歴史のある歌詞で、
いろいろな解釈があることが分かりました。

君が代-Wikipedia

「君」が

天皇のことだとか、

単なる「あなた」だとか、

イザナギ、イザナミという
神様の名前だとか、

元うたでは
愛する人のことだったとか、

本当にいろいろな
解釈ができますね。

歴史的にこう解釈されてきた
というような正解は
あるのかもしれませんが、
歌詞の解釈は
人それぞれあっていいと思います。

ということでこの記事では、
「君が代」の
アセンブリック教的解釈を
お伝えしていきます。

アセンブリック教については
こちらをお読みください。

アセンブリック教のご紹介

誰かの永遠を願う歌

「君」という言葉の対象は、
人によって違うとしても
誰かの永遠を願う歌
であることは共通しています。

アセンブリック教では
この解釈を基本としたいと思います。

頭では、
永遠なんてない
と分かっていながらも、
永遠であってほしい
と、願わざるを得ない。

例えば大切な人を失った時の、
嘆きのような歌
だと思います。

永遠でありたい
とは歴史上の偉人も
考えたことです。

ですがこの歌では、
自分の永遠ではなく、
「君」

他の誰かの
永遠を願っています。

自分ではなく、
誰かのためを思う心こそ、
日本人としての誇り
なのだと思います。

あなたの永遠を願う人がいる

一方、
聞き手にとっての「君」とは、
自分のこととも考えられます。

あなたにとって
大切な人がいなくなった時、
悲しい気持ちになるのと同じように、
あなたがいなくなることを
悲しむ人がいる。

誰かにとって
とても大切な存在である自分を
自分で痛めつけたくはないですよね。

お体を大切に。
自分をいたわってください。

というようなメッセージを感じます。

誰かが悲しまないためにも
自分を大切にしましょう。

アセンブリック教の歌

「さざれ石の巌となりて」

ずっと長い時間を表現する
歌詞の一部ですが、
他にも表現はあったはずなのに、
小さな石が集まって岩となる
という表現である理由。

それは、
アセンブリック教が信じる、
原子が集まって人間を形成しているように
人と人とがつながり合うことで、
新しい価値を生み出すことができる
ということを表現しています。

しかし、
原子がただ集まって、
つながるだけでは
人間にはなりません。

同じように、
人と人とも
ただつながるだけでは
新しい人間になれないのです。

ではどのようにつながるか。

誰かの永遠を願う歌にならって、
お互いの永遠を信じて
つながりましょう。

永遠なんてないと
分かっているけど

それでも……!

 

「君が代」
を歌う時、私は
深い悲しみの気持ちを持って
歌いたいと思います。

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