人生がむなしい気持ち 長南瑞生仏教講座メルマガ 怪しい

宗教

お元気ですか、
アセンブリック教団代表
河西数真()です。
アセンブリック教のご紹介はこちら。

人生ってむなしいと思いませんか?

どんなに生きても
100年もすれば、みんな死んでしまう。

何をして、何を考えても
行き着くところは同じ。

せめて、
楽しんで生きようと思っても、
ふと我に返ったとき

「何のために生きているんだろう?」

小さい頃、
熱中していたゲームをクリアした時

「やったー、クリアだ!」

と、
達成感や高揚感を感じると同時に

「楽しかった冒険も終わったなぁ……」
「明日から何しよ」

と、喪失感や虚無感を感じたように。

「人生の意味ってなんだろう?」

そのようなことを考えてしまうことは?

人生の目標なんて言えば、
その辺に転がっている時代です。

好きなアニメのために生きる、
仕事のために生きる、
家族のために生きる、
お金のために生きる。

いろいろな、
〜のために生きるがあります。

目的が手段になって、
こんなことを言うなめてるやつも。

生きる理由 目的 価値 意味を探すために生きる
お元気ですか、かにかまです。かにかまって何?⇒プロフィールはこちら。 「何のために生きているんだろう」ふと疑問に思うことはありませんか? 考えても考えても答えが見つからず、「生きる価値なんてない」と結論付けそうになることは? この記事では、...

目的なしに生きることは楽ではありませんから。

〜のために生きる、
と選んで決めてしまえば、
その方が気持ち的には楽だったりします。

決めてしまえるのなら。

目的なく生きているようなしんどさ、
今になって感じているわけではありません。

昔からずっと、
特に体調が悪い時、
強く感じてしまいます。

年末年始に
インフルエンザで倒れた時、
やはり同じように感じて、
何を血迷ったか
私は仏教メルマガに登録しました。

こちらのメルマガです。

この記事では、
人生のむなしさと仏教の関係性について
なめていきます。

人は幸せになるために生きている? ハァ?

仏教メルマガで言うには、
人生の目的は、
「本当の幸せになること」

「本当の幸せ」
とは何なのかというと、
仏教で言うには

「生まれがたい人間に生まれて良かったぁ」
「もういつ死んでもいい」

そんな境地だそうです。

ある人が言うには、

幸せとはなるものではなく、感じるもの
幸せの感度をあげていくのが人生という旅路

だそうです。

「幸せの感度」を上げきった先が
人間に生まれて良かったぁ
なのでしょうね。

でも、それで本当に
人生の目的達成なのでしょうか?

生まれて良かったぁ、の先は?

そこで人生終わるわけではないですよね。

もし終わるとしたら、
本当の幸せになった人から死んでいってね、
っていうおかしなことになりますもんね。

人生はレストランじゃない。なめてんのか

「いつ死んでもいい」

その心をこんな例え話で表現されていました。

あなたはあるレストランに入った。

目的はもちろん、食事をするため。

食事を済ませてないのに、
「混んできたので出ていってもらえませんか?」
と言われたら
「はぁ?」
となりますよね。

でも、食事が済んでいるなら
「分かりました」と出ていけます、と。

それは違います。

通常のレストランであれば、
外に出たら他にも行くところや
楽しい場所があります。

映画館とか、
遊園地とか、
ゴルフ場とか、
家に帰ってゲームをするのでも良いでしょう。

他に行くあてがあるから出ていけるのです。

もし、
レストランの外が極寒で、
行くところも帰る家もなかったとしたら、
食事が終わっても出て行きたくないですよね。

極寒のレストランと同じように、
人生が終わったら行くところなどありません。

うじ虫のお腹か、
火葬場で燃やされて空気になるか、
バクテリアのお腹か。

その程度です。

人生以上に楽しいところなどないのです。

だから、人生はレストランではありません。

用事が済んだ、
目的を達成したとしても
出て行きたくないですよ。

心理学者も哲学者も文学者も後悔しながら死んでいく

メルマガによると、
心理学者も、
哲学者も、
文学者も、

生きる意味がわからず、
死ぬ時には後悔しながら
死んでいったそうです。

そこらの学問には
解決できなかった問題を
仏教なら解決できるよ、
と言っています。

うさんくせぇ!

仏教だ仏教だ
と言っていますが、
人間として生まれた価値については
イスラム教も同じようなことを
言っているんですよね。

人間に生まれたからこそ、
生き方を選べる、と。

そこには当然、
責任も伴いますし
最期に後悔することもあります。

それでも自分の意志で
選択するからこそ、
あるがままで美しい自然よりも
さらに美しくあることができる。

よくわからないけどそんな感じです。

仏教だけがすごいわけじゃありません。

自分だけは後悔せずに死ねると思ってるの?

今まで多くの偉人が
後悔しながら死んでいったわけですが、
自分は後悔せずに死ねる。

そう思うとしたら、
一体何が根拠となっているのでしょう?

「俺は特別な存在なんだぜ」
ってことでしょうか?

本当は
後悔しながら死ぬことが怖くて
逃げ出したいだけでは?

楽がしたいんでしょ。

なーんだ、私と同じ、
人生なめてるやつじゃないですかぁ!

と、このような感じで
人生なめてるやつは
仏教メルマガを読んでも
いまいち納得できません。

でも、
特別な存在であるあなたなら、
何か理解できるかも。

そしてもし、
仏教が分かったら
教えて下さいね。

お問い合わせ

仏教メルマガは
こちらから登録できるようです。

ちなみに、
仏教的な答えが欲しかったら、
「ハスノハ」という
お坊さんが質問に答えてくれるサイトがあります。

私も質問してみようかな。

仏教って
すごいことを言ってそうだけど、

中身は大したことないですよね?

なんて。

ブーメランですけど。

バカっていう方がバカなんでー
お元気ですか、かにかまです。かにかまって何?⇒プロフィールはこちら。 「お前、バカだなー」 「バカっていうやつの方がバカなんでー!」 子供の頃、こんな言い合いをした記憶はありますか。 今回は、バカという方がバカということについてなめていきま...

コメント

  1. T.K. より:

    仏教は永遠に続く絶対の幸福になるためにあるのです。あなたはあなたの思想で人生を気楽に生きられるかもしれませんが、死んでも阿頼耶識(最近の哲学で言う深層心理のようなもの)は残りますから、因果の道理にしたがってあなたがいままでに犯してきた罪悪が結果となって長期間苦しみを受けることになります。例えば私達は多くの生き物を殺して食べているわけです。これは直接殺していなくても食べれば同罪です。また、私達は自分にとって好ましくないことが起きれば怒りの感情が湧きますが、それも罪悪です。自分に起こる全てのことはいままでの自分が犯してきた罪悪が業力となって阿頼耶識に蓄積されそれが周りの環境などの縁と結びついて結果となります。つまり、嫌なことはすべて自分が今まで犯してきた罪悪が原因なのです。だからそれに怒りの感情を抱くことは罪悪となるのです。そんな罪を犯し続け苦しみ続ける私達を永遠に変わらない絶対の幸福にする方法が仏教では教えられているのです。死んだら終わりではありません。絶対の幸福になった人がいつ死んでも大丈夫というのは死んでも阿頼耶識が永遠に続くからなのです。あなたはあなたの思想によって人生を楽しんでいるようですがそれらはすべて相対的な幸福で儚いものです。そんなものを求める意味などないですよね。死んだら苦しみが待っていますからね。ちなみにお釈迦様のIQはよく300などと言われます。明らかに一般人とはかけ離れすぎていますよね。あなたの知能での思想とお釈迦様が言う事どちらがより真実に近いのでしょうか。もし、あなたがいますぐ仏教を聞きたい思うのであれば仏教講座メルマガで学んで見ればいかがですか。

    • かにかま より:

      はじめまして。
      コメントありがとうございます。
      私が気楽に生きているように見えるとしたら、きっとあなたがそうなのでしょうね。
      相対的な幸福が儚いものと言われますが、絶対的な幸福は儚くないのですか?
      追い求める限りたどり着けない蜃気楼のようなものだと思いますが。
      人が幸福になるために生まれてきたとは、私は信じていません。

      • T.k. より:

        あなたは仏教はすごいこと言ってるようで中身はたいしたことないとお考えのようですがそれは違います。仏教には誰でも絶対の幸福(涅槃)になれる方法が解かれています。仏教は胡散臭いものではありません。仏教は因果の道理が根幹にあって極めて論理的です。人生以上に楽しいところはないという考え方はよく考えてみればおかしいということにすぐ気がつくはずで。なぜなら欲望には限りがないのでいくら求めても結局は満たされないからです。絶対の幸福は万人共通の苦悩の根本原因を断ち切ることによってなるものです。原因がなくなれば結果もなくなりますから二度と苦しむことはなくなります。その苦悩の根本原因は無明といって如実知見ができず真理がわからない暗い心のことです。どうすれば断ち切れるかは詳しく調べてみてください。

        • かにかま より:

          T.k.さん
          コメントありがとうございます。
          ああ、あなたは苦悩の根本原因を断ち切った先の絶対の幸福というものに価値があると感じているのですね。
          私はこう思います。果たして無明を断ち切って良いのだろうか、と。
          無明に苦しむからこそ、闇の中の一筋の光に価値を感じるのではないでしょうか。無明を取り去った先に、どんな価値を人は見出すと思いますか?
          人間に生まれたからこそ、苦しみを味わうことができる。苦しみを知るからこそ、幸福の価値を知ることができる。結局人生とは苦痛のことなのではないかと。

          仏教の中身が大したことないのではないか、とは少し思いますが、それ以上に、仏教をすごいもの、難しいものとして売り込みたい人が多いように感じて胡散臭く感じているところはありますね。

          • T.K. より:

            本当にに申し訳ないです。今まで私が投稿してきた内容はなしにしてください。今までは仏教ウェブ入門講座に書いてあることは絶対正しいと完全に信じ込んでいましたが、つい最近仏教ウェブ入門講座を書いている長南瑞生さんは親鸞会の講師だと判明しました。親鸞会はネット上でかなり批判されていますが、親鸞会の問題点は三願転入を説いていることです。三願転入とは阿弥陀如来に無明の闇を破ってもらうにはまず19願(観無量寿経)に説かれる善を「自分は善が何一つできない罪深い人だった」と知らされるまでやり、つぎに、20願(阿弥陀経)に説かれる念仏を一日に数万回唱えることにして助かろうと思っても「自分は念仏をただひたすらに唱えつ続けることさえできない極悪人だった」と自分は助かる手がかりさえないと自覚した瞬間、阿弥陀如来の私達を助ける「南無阿弥陀仏」という声なき声が聞こえた瞬間に無明の闇が晴れ絶対の幸福になれるというものです。しかし、阿弥陀如来の本願(18願)はどんな人でも真実の心で我が誓いを深く信じ、極楽浄土に生まれたいと願い、たった10回でも念仏すれば必ず死後極楽浄土に生まれさせ仏にさせるというものであり、三願転入は必要ありません。真実の心で深く信じるというのは信心決定のことで、阿弥陀如来の誓いを疑い救いを拒否する「本願疑惑心」を阿弥陀如来に取り除いてもらうことです。そのためには生起本末を阿弥陀如来の視点で聞けば良いのです。これだけで死後仏にさせてもらえると誓っているのです。そんな本願を三願転入をしなければ助からないと言っているのは明らかに本願の聞き誤りであり、それを教える親鸞会の講師である長南瑞生のメール講座には必ず最後に親鸞会への勧誘のページがあります。そこでみんなと一緒に三願転入をしようと言うはずです。私はつい最近まで間違ったことを教える団体にあなたを知らずのうちに導こうとしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。なので後ろにある11月14日の投稿も気にしないでください。

  2. 匿名 より:

    かにかまさんは仏教だけがすごいわけではないといっている割には結構仏教の考え方をよくこのサイトに書いているように思えます。

    • かにかま より:

      コメントありがとうございます。
      たしかに少々仏教のお勉強をしてきましたので、自然と考え方が表に出ることはあるかもしれません。
      ただ今は、無邪気な魂の声を聞くなら自然と仏的な境地にも入るのではないかと思っています。詳しい出典は忘れましたが、どんな生命にも仏の性質があるそうです。だからあなたも、本当の姿は仏様ですね。

  3. T.K. より:

    あなたはとても頭のいい方のように思えます。なぜなら自分の考えに対して極めて論理的に理由を答えているからです。さらに、私のような人に考えを批判されてもちゃんと相手の意見も聞きいたうえでそれを踏まえて自分の意見をわかりやすく答えているからです。ところで何回もしつこいかと思われるかもしれませんがやはり苦悩の根本原因である「無明」を断ち切ったほうがいいと思います。確かに苦しいことがあるからこその幸せという考え方は間違っていないのですが、前もお伝えした通り無明を断ち切らなければ因果の道理によって死後今より苦しい世界に生まれてしまいます。ご存知の通り因果の道理とは自分の過去の口・体・心の行いが業力となり、それが因となり周りの環境や出来事などの縁と結びついて自分に結果となって降りかかるという道理です。死後何故今より苦しい世界に生まれてしまうかといえば私達が他の生き物を体で殺して食べ、時には口で悪口や愚痴を言い、心では怒りの心を持ったり相手を見下したり妬みの感情を持ってしまうからです。更に、人に善を体や口でしても見返りを求める気持ちが少しでもあれば心は悪ということになるからです。この因に、死という縁が加わることによって苦しい世界に生まれるという結果になるのです。無明は輪廻転生の根本原因でもあるのでそれを断ち切れば死後今より苦しい世界に行くことはありません。また、絶対の幸福は相対的ではないつまり何かと比べることがなく感じる無上の幸福なので苦しいことがあってのものではないのです。あと、無明に苦しむのではなく無明があることによってすべての苦しみが生まれるのです。仏教に教えられている苦しみの根源を抜く方法を知って実践しても別にいいのではないでしょうか。無明は如実知見ができず真理に暗く死んだらどうなるかわからない心なので断ち切る方法はそこまで難しくないです。試してみてもいいと思いますよ。

    • T.k. より:

      すみません。すぐ上のコメントはなしにしてください。長南瑞生さんは親鸞会の講師だと判明したからです。

  4. T.K. より:

    度々すみません。T.K.です。私はもっと重大なことを勘違いしてしまいました。それは「絶対の幸福」についてです。私は長南瑞生=親鸞会講師に完全に間違った阿弥陀如来の本願を教えられていました。間違った阿弥陀如来の本願とは「すべての人の苦しみの根源を抜いて絶対の幸福にする。」です。実はそれはどこにも根拠のない親鸞会のでっち上げだったのです。18願の原文は「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」です。この原文は実際に大無量寿経に書いてあります。この現代語訳は「私が仏になったとしても(設我得仏)、すべての人々が(十方衆生)、真実の心で(至心)私の誓いを少しの疑いもなく信じ(信楽)、私の仏国土すなわち極楽浄土に生まれることができると思って(欲生我国)、わずか10回でも南無阿弥陀仏と唱え(乃至十念)、すべての人々をもし、極楽浄土に生まれさせることができないのなら(若不生者)、私は仏の悟りを開きません(不取正覚)。ただし、五逆すなわち親殺しや仏教は間違っていると言う人は除かないといけないくらい重い罪です(唯除五逆 誹謗正法)。」です。これを簡単に言えば「私の誓いを全く疑いなく信じ念仏すれば必ず極楽浄土に生まれさせる。」となります。どこにも「苦しみの根元」や「絶対の幸福」という意味の言葉は出てきません。そこでもう一回長南瑞生のサイトを見てみると「至心信楽」を絶対の幸福と説明していました。そして生まれるというのは絶対の幸福に自分の心がなることだと解説していました。ああ、完全に騙されました。阿弥陀如来はこの世で私達を絶対の幸福にさせたいのではなく、私達を死後極楽浄土に生まれさせ仏の悟りを開かせたかったのです。やはり、カニカマさんのように人間に生まれてよかったという絶対の幸福を疑っていたほうが良かったです。今までの批判のコメント本当に申し訳ありませんでした。

    • かにかま より:

      T.K.さん
      丁寧なコメントありがとうございます。
      この記事を書いたのは、メルマガを読んで、なんか違うなと感じたからです。ですので気にされなくて大丈夫です。
      死後極楽浄土に行くと信じるのも悪いとは思いませんが、私はこの人生をどうするかの方が大切なように思います。
      せっかく生まれがたき人間に生まれたのですから。

  5. TK より:

    「本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
     功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」
                                高僧和讃より
    お久しぶりです。TKです。
    今までとても失礼でしかも間違った内容のコメントを書いてしまったこととても申し訳ないです。
    ところで上の文は阿弥陀仏の光明(本願力)が自分の心を照らしたならば、虚しくすぎる人生ではなくなるということです(光明が呼び声となって現れてくださったのが南無阿弥陀仏の名号です)。阿弥陀仏の光明に照らされたら、その功徳によって死後極楽に生まれることが決定しますが、しかし生きている間も照らされているわけですから常に死の不安はなく、安心して生きていける人生に変わります。常に阿弥陀仏を拠り所として生き、極楽へ近づいていく明るい人生に変わります✨✨✨✨✨✨✨✨
    死後だけの話ではないんです(^o^)今この瞬間が本当の親のいる安心の世界になります。
    ですからカニカマさんも、光明が「私に任せ一心に念仏せよ。必ず極楽に生まれさせる。」という呼び声の姿になって届いた「南無阿弥陀仏」のいわれ(仏願の生起本末)を聞いてただ今救われて下さい。
    https://amidabuddha18.com/jodoshinshu7/ ←仏願の生起本末を聞けます
    https://rcrc1535.livedoor.blog/ ←阿弥陀仏の慈悲の心がそのままrcさんを通して聞けます
    https://anjinmondou.hatenablog.jp/ ←疑問が解決できます。