幸せという概念がなくなった世界

お元気ですか、
アセンブリック教団代表
河西数真()です。
アセンブリック教のご紹介はこちら。

白い部屋で、
二人が話している。

「なぁ、幸せって言葉知ってるか?」

「なんだいそれは?」

「昔の人らが使ってた言葉らしいんだけどな。
幸せになるために生まれてきた
って主張もあったらしい」

「へぇ、興味深いね」

「本当にそう思ってる?」

「ははは」

 

ここは幸せという概念がなくなった世界。

ワープシステムにより、
社会は便利になった。

人は自由を手に入れ、
安全に毎日を過ごすことができ、
誰もが幸せを手に入れた。

それはいつしか当たり前となり、
世界から幸せという言葉が消えた。

幸せであることが当然となり、
ありふれすぎて、
認識できない。

幸せばかりでは
幸せを感じることはできないのだ。

安全であるという思い込みが一番危険

現実でも同様のことは起こっています。

電気・水道・エアコン・法律など、
社会的にシステムが整備され、
安全・快適であることが当たり前。

そのような社会で育った子供は、
安全の価値を知らなくても仕方ありません。

当たり前のことに感謝する、
というのは人間にとって難しいですからね。

社会が安全になっても、
個人の危険感知能力や
安全意識は低くなる。

危険を認識できないことで、
怪我をする人もみかけます。

痛い思いをしたベテランであれば、
吊り荷の下に指を入れたりなどしないのに
分からないからつい指を入れて
挟まれてしまったり、

スパナが外れたら怪我をするのに、
思い切り力を入れてしまったり、

まさか怪我をするとは
思わない高さから落ちて、
骨折してしまったり。

身近に怪我をした人がいて、
もし何も感じないとしたら、
その人の感覚がおかしい
というのもあるでしょうが、

安全な社会に慣れきって、
安全であるに違いない
という思い込みのせいで
現実を見ることができていない、

というのもあると思います。

災害発生時の正常性バイアス、
もしくは誰かが安全をみてくれるという、
リンゲルマン効果です。

詳しくはWikipediaを参照ください。

正常性バイアス
リンゲルマン効果

幸せの絶頂という不幸

仏教でも似たことが言われていますね。

天魔という仏道修行を妨げる存在は、
欲界の最高位にいます。

天魔ーWikipedia

すべての欲が満たされた、
幸せだーという時、

いつしか幸せに慣れて、
人生は味気のないものとなり
現状に満足して努力などしなくなる。

新たな創造などなくなる。

そんな不幸への落とし穴が、
口を開けて待っています。

「幸福は創造の敵」と、
『映画大好きポンポさん』にもありました。

映画を撮るか死ぬか『映画大好きポンポさん』

もちろんこれは、
幸せになれない人がルサンチマン的に
幸せ以外の価値を作り出して
自らの存在意義を認めようとする、

宗教によくある考え方かもしれません。

ですが社会が発達し、
求めるものはなんでも手に入り、
争いはなくなり、
みんなが幸せになれる時代が来た時、

不幸ではない

と言い切れるでしょうか?

親指を描きたいのなら

「親指を描きたいなら、親指を描こうとしてはいけません。
 親指を描くなら、親指の周りの空間を描きなさい。」

ーベティ・エドワーズ、美術の先生

安全を描きたいのなら、
安全そのものではなく
周りにある危険を抽出する必要があります。

現場に安全など存在しないのです。

危険を認識し、
対策をとっていくからこそ
仮初の安全が成り立つ。

危険がなければ
安全という概念もなくなります。

幸せについても同様かもしれません。

不幸を描くことで、
幸せの輪郭が見えてくる。

そんなわけで
バッドエンディングなお話を
描いてみようかと思っています。

ショートショート 『Free Warp アプリ』

人間は間違った存在であり滅びるべき

 

「不幸を描くことで、
相反する幸せを描こうとした
教団があったらしい。
アセンブリック教というんだってな」

「へー。その教団はどうなったの?」

「それはね……」

 

〜続く〜

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